厚労大臣への要望書提出に際して、東日本大震災女性支援ネットワークが呼びかけに対して、被災者や支援者などから、女性の雇用に関する67ものメッセージが寄せられました。その内容からは、被災地での女性の雇用の深刻さが感じられます。
その内容をご紹介します。

被災地の女性からの雇用に関するメッセージ

東日本大震災女性支援ネットワーク
2011年12月19日

●福島県福島市(50代)
人間の復興には,経済的な自立が不可欠です。経済的な自立が心の復興も促します。
原発事故により,ズタズタにされた人々のつながりを再構築するためにも,是非被災
地福島に雇用の場を確保する政策を推進して下さい。震災後,男性の雇用確保が優先
されていますが,経済的弱者である女性の雇用に力を入れて下さい。

●福島県郡山市(40代)
被災地で女性のための相談に当たっている者です。
普段でも就職が困難な女性(特に中高年)たちが、震災によっていっそうの苦境に追い込まれるというしわ寄せを受けています。
雇用の確保は、被災者たちの日常的な安心と回復には不可欠な条件です。
ぜひ積極的な女性雇用策の実施をお願いいたします。

●福島県福島市(50代)
実家の自営を手伝ってきた。震災同居してきた親族との軋轢を避けて独立した生活を送ろうと思い、就職を探しているが、がれき処理などの男性向けの仕事はあるが、特に資格のない私がすぐ就職できる求人は見当たらない。市街地の安いアパートもみなし仮設で借り上げられてしまっており、働くための住所設定もできずに困っている。

●福島県郡山市(50代)
震災が理由だと直接言われはしなかったが、明らかに震災が原因で事業が不振になったことから人員削減があり、「あなたは誰も養っていないでしょう』と言われて契約更新してもらえなかった。事務職なので、この年で新たに雇ってもらえるところもみつからず、年金受給までどう過ごしていいか困っている。

●宮城県仙台市(50代)
石巻に震災直後からボランティアに行っている方からの話です。
ネイルケアや美顔のボランティアのひとたちと一緒にいるが、震災直後では心の癒しになったことも確か。でも化粧品も一応いきわたった今、ほしいものは仕事。
子ども達が学校に行ってしまった後はすることがなく、気持ちが滅入ってしまう。震災前は地元の水産加工場で仕事をしていた。震災で港も壊れ、仕事を失ってしまった。
港に魚が水揚げされれば、大型の冷凍庫がある工場ができれば、地元では長年水産加工の仕事をしてきた熟練の働く人たちがたくさんいる。
水没地域での都市計画が未定のために工場が立たないのだろうが、内陸に仮設の工場を建てて、魚を運び、とりあえずは車を失った労働者をマイクロバスで送迎すればよい。バスの運転、魚の輸送、そして水産加工の仕事。雇用創出にもなる。
当初は8時間の労働でなくても、4時間ずつ2名ワークシェアをすれば、当面のお金にもなる。そうしたら、車も買えるし、活動範囲が広がる。
他の港に魚が水揚げされてしまうと、石巻の活性化もすすまない。とにかく、水産業のまちに水産加工の仕事を作ってください。

●岩手県田野畑村(支援者(住職)、20代)
・女性の多くが、村の観光ホテルで女中等として働いていたが、ホテルが津波でダメになり、仕事がなくなった。観光は村の雇用を支えていたので、復興にはその再興が不可欠。
・震災後は肉体労働が多く、女性には向かない仕事が多い。
・震災以前から菌床きのこ産業に従事していたが、そもそも下火となっていたため、震災後も継続的に雇用はしてもらっているが安定した雇用ではなく、先が見えない。
・水産加工場で働いていたが、加工場が被災した。加工場は、隣町によい土地が見つかったからと隣町で再開することになったが、そのような状況で雇用を継続してもらえるかどうか分からない。車がなければ通えない。
・女性に限らず、村では若者の雇用も大きな問題だ。被災市町村で起業しようとする女性や若者を支援するようなセミナー(盛岡まで出なくても、村で受けられるようなもの)やプログラムがあればいい。

●岩手県岩泉町(支援者(住職)、20代)
・小本地区では、アクリルタワシを販売するボランティア団体が入り、仮設住宅の集会所で女性たちがアクリルタワシを作り、販売してもらっている。専門的知識やスキルを必要としない内職の選択肢がもっとあるといい。

●岩手県大船渡市、大槌町(牛乳販売店事務(パート)、20代)
・家族経営の会社が被災、解雇された。しかし、退職金はもらえていない。恐らくもらえるはずだが、就業規則等見たこともなく、うやむやなままになっている。
・職探しにも仕事に行くにも、とにかく車がないと無理。沿岸部はガソリンも高く、経済的負担は大きい。
・地域がら、高校進学率が高くない。若者も今まで漁業に関わってきた被災者も、一般的な雇用で必要とされるようなスキルが不足している。
・女性に限らず、若い人が住むような町にならなければ、雇用もうまれない。
・岩手は広く、盛岡に出るまでの道のりは遠い。また、病院もなく不便なところがたくさんある。企業誘致、雇用創出は難しいと感じる。
・勤めていた三陸鉄道が再開のめどが立たず、解雇された。路線が継続されるか分からず、もとの職場に戻れるか分からない。(50代)

●宮古(水産物卸小売業、50代)
・仕事がないことは生きがいがないのと同じで、お金と同じくらい必要。今は義捐金等一時的なもので生活ができているが、今後のことを考えると経済的不安が徐々に大きくなっている。
・今は復興特需で土建屋が忙しいが、土木関連では女性が就ける仕事が少ない。地元に企業が誘致され、働き口が一日も早くできればいい。
・具体的復興のビジョンが定まらないので、自分の将来も描けない。
・内陸避難(盛岡市の内陸部市町村へ一時的に避難すること)した友人たちは、そろそろ宮古に戻りたいというが、家も失い仕事も失ったので、戻れずにいる。女性であれば、なおさら難しい。
・岩手県の最低賃金、生活水準は非常に低い。働かずに雇用保険をもらう方が、実際に働いて給料をもらうよりも金額が大きい。女性の場合、正規雇用であっても、そのような状況だ。
・女性であれば、一生懸命働いて年金をもらうよりも、夫の扶養家族に入って、夫の死亡後には遺族年金をもらう方が、金額が大きい。こういう制度になっているから、仲間の女性は働く意欲を持たない。
・政治家には、現地のハローワークで求人票を見て、宮古で月にどれだけ稼げるか見てほしい。一生懸命働いても、とても自立して生活できる金額にはならない。不動産屋も見てほしい。こういう雇用の状況なのに、家賃は盛岡や仙台と変わらない。
・緊急雇用創出による一時的な働き口が生まれているが、やはり続けられるかどうかを考えると不安が大きい。
・地元企業の支援が、女性の雇用の場にもつながる。
・自分自身は被災していなくても、雇用主が被災したことにより、一方的に給料を下げられてた友人たちもたくさんいる。
・岩手県沿岸部の雇用に関する状況は、震災前から悪かった。問題は複雑だと感じる。1度や2度視察しただけで分かったつもりになってもらいたくないし、抜本的な制度の見直しや支援を、本当にそこに住む人に寄り添って、その人たちと一緒に考えてもらいたい。

●岩手県大船渡・大槌・陸前高田(農山漁村女性支援者、50代)
・若い人は、殆ど自家の漁業に従事することなく、他産業で働いていたので、津波に襲われた地域に職場があった人は、多くが失業している。浜仕事は中高年女性が担っていた。ワカメ刈りが行われれば「ボイル」や「芯抜き」等、「塩ワカメ」作り作業。昆布が刈り取られると「ボイル」に続いて「スキ昆布」作り作業等が行われ、自家の分が終わると近隣に手伝い(アルバイト)に行く等して小遣いやおかず代を稼いでいた。3.11以来こうした仕事もなくなったうえ、仮設住宅に生活する人たちはなすこともないまま過ごす日々だった。今は、秋以降ワカメの種まきが行われ、規模はかなり縮小されたが、来春の刈り取り時期に期待を寄せている。
・地盤沈下によって未だに海水に浸かったままのエリアに農地を保有している農家では、引き続き作付できず、そこで作付された大豆で豆腐や、味噌を作って販売してきた女性起業には今冬はもとより、来年の原料確保が大変な状況が予測される。しかし、可能なところは除塩して作付し、あるいは塩分に強い作物を選んで栽培して、産直での販売等に取り組んでいる人もいる。瓦礫の山だった農地でも、ボランティア等によって一見きれいにかたづけられている。しかし、地中にはガラスのかけらや小さな金属片等が無数にあり、いつ農地に返すことが出来るか、あるいは農地として使い得るのか全く不明なところもある。
・職種を問わなければ、求人はある程度あるが、求人の多くは水産関係で、求職者の希望業種と一致しないことも考えられる。しかし、今一番就業者が増えない原因として、失業保険給付期間が延長されており、あわてて就職しなくてもいい状況があることも一因と言われている。募集の賃金が低いため、働いた場合より、失業保険の方が額が多く、将来の年金を考えても失業保険の方が有利な場合もあることもいわれている。
・企業側では、経験者を採用したいが新規採用には補助金が出るが再雇用には出ないこと、求職者には上記の事情もあることから、再雇用が進んでいない。
・こうしているうちに、労働意欲が相当低下してしまわないかという心配もされている。このため、働いて得る賃金と、失業保険との差額分が一定期間支給されるような制度が必要でないか。とにかく、働ける人は働く方が有利となるような制度が必要。

●岩手県地元紙女性記者の話
・陸前高田市のことだが、仮設住宅には、シングルマザーも結構いる。彼女たちが、仕事や職探しに行きたいが、子どもを預かってもらいにくく、なかなか仕事や職探しに行けないと聞いた。
・(特に東北地方は車がないと生活が大変不便なのに)車が流されて、まだ新しいものが買えない。残された車は夫が使ってしまっていると聞いた。

●岩手県大槌町吉里吉里(きりきり)で仮設食堂「よってったんせぇ」を営業しているマリンマザーズ吉里吉里のメンバー(女性)のお話(岩手県の補助事業「がんばろう!岩手・農村起業復興支援事業」)
・今は、働く場所というよりも、行く場所(食堂のこと)があるだけで恵まれていると感じる。ただし、補助金は今年度一杯であることが不安。女性は男性に比べ、経営のノウハウが少ない。7月にオープンして6カ月近くになり、ようやく軌道に乗ってきたかなというところで年度末が来てしまう状況。来年度以降も、減額してでも補助金を継続してもらえれば、自立に向けて頑張り続けていける。
・水産加工では、多くの50代、60代の女性が働いていた。しかし、家族や家を失って、精神的・肉体的に調子を崩し、以前のように働きたくても働けない人もいる。すべてを失い、まだ、一体何のために生きていくのか、働くのかを考える時期におり、一歩が踏み出せない人もいる。
・震災後も仕事がある人は、生活していくために働き続けなければならず、震災を振り返ったり悲しむ時間も十分に持てずにいる。
・失業保険が切れるまで働かないことを選択したり、働く意欲が低下している人が多く、町では働き手が不足している状況だ。介護も看護も、再開した水産加工所、復興のための建設業も、働き手が足りない状況にある。町外から労働力を調達しようとしている事業主も出ている。いざ失業保険が切れたとき、働けるのか不安。
・まだ無料の支援物資で生活ができている部分もあるが、いつのタイミングで自分たちが自立するのかを考えると不安。
・町の復興計画が決まらず、高台移転が何年後なのか、どこに住めてどこに住めないのかが分からず、将来住む場所も決められない状況。生活設計が立てられない。家族のことを考えると、生活設計が立てられないことは女性にとって不安が大きい。
・震災前、夜の宴会が開催できた食堂では、(以上の)働き手不足により、最近(忘年会シーズン等で)夜の宴会のニーズがあってもそれに応えられないような状況。町には街灯がなく、特に女性であれば、例えば働きたくても夜真っ暗な中を帰宅することを考えると働けない。津波で道路がどこで切れてしまっているかも見えず、車で移動していても怖い。せめて街灯でもついてくれればと思うが、夜になると不安になる。
・どういう支援がほしいかと聞かれても、現状はいろいろな要素が絡み合っており、私には分からない。政府に知恵を絞っていただきたい。

●しんぐるまざぁず・ふぉーらむ福島の遠野さんのお話
・福島は原発の影響で、農産物だけでなく工業製品も売り上げが減少し、工場が次々と閉鎖している。まっさきに首を切られるのはパートである女性。
・今後は、除染の仕事しかないだろうとも言われている。もちろん若い女性は除染の仕事には就けない。
・緊急雇用は来年3月まで延長が決まったようだが、今、緊急雇用をやっている団体がその事業を継続するかどうかはまだ不透明な状況で、先の見通しがたたない。
・緊急雇用である絆事業で雇用されているのはやはり男性が多い。政府には、ぜひ女性が働けるような就労支援をしてほしい。
・就労支援も、パソコンのスキルだけでは仕事がないので、併せて経理のスキルも身に着けられるようにしてほしい。
・緊急雇用については、人件費だけではなく、家賃や団体の運営費にもお金をまわせるようにしてほしい。

●日本プレイセラピー協会 理事の本田さんが30代、40代の女性から聞いたお話
・子どもの預け場所がない。女性が働くためには子どもの預け場所の確保が必要。預けられないために、また両親・親戚とも震災後の様々な手続きや仕事探しなどに追われているため、
いままで子どものネグレクトが非常に少ない地域だったのに、増えている。
・仮設住宅に子どもの居場所がない。集会所があってもお年寄りの集う場所になっていたり、夕方学習のために集まるにしても、仮設の住居から集会所までですら真っ暗すぎて危なくて
歩いていけない。仮設が狭いのに、子どもが騒がしいとの声もあり、親は非常に気を使っている。
・自治体などの地域で行われる親子で遊ぶ場所が少ないことで、親が新しいコミュニティで人間関係を作る場所がない。知り合いなどに子どもをちょっと預ける関係を作りにくい。
・電灯がないので、学校後に子どもの帰宅路が暗すぎる。子どもが学校後に行ける場所(学童)がない。あったとしても、学校に親が迎えに行き、学童に連れて行くなど、働く親に
とって困難な状態。(岩手県山田町にはあるNPOによって「ゾンタハウス」という、送迎つきの学童ができた。こうした事業が必要)。
・夫の雇用も戻らず、パチンコ、飲酒などが増え、狭い仮設でのストレスからDVが増加している。夫の雇用が戻ることにも同時に力を入れる必要がある。
・冬休みは学校や幼稚園がないので、子どもが行きぬく場がなく、ストレスが家庭で高まる可能性が大。心理的な影響が非常に心配。

●福島県本宮市(20代)
派遣で製造の仕事をしていたが、震災後退職をさせられた。
パートの方は継続して働いているので、納得がいかない。

●福島県本宮市(浪江町から避難)(50代)
浪江町で販売の仕事をしていたが、震災のため避難、仕事もなくなった。
職安にて仕事を探しているが、希望する仕事がない。

●福島県二本松(浪江町から避難)(60代)
ヘルパーの仕事をしていたが、震災のため退職せざるをえなくなり、二本松に避難してきた。ヘルパーの仕事を続けたいが高齢のため仕事がない。

●福島県福島市(30代)
震災前は福島市内で塾の講師の仕事をしていたが、震災後は子供達が避難したため、人数が
減り仕事を続けることができなくなり、退職した。

●福島県二本松市(仮設住宅)(30代)
震災前は、パートで弱電の会社で働いていた。
震災後同じ様な仕事をしたいため、職安にて仕事を探しているが、なかなか見つからないので、とりあえず内職をしながら、パートの仕事をさがしたい。

●福島県相馬市(大熊町から避難)(30代)
事務職の仕事をしていたが、震災のため仕事がなくなり、生活が大変になった。

●福島県二本松市(浪江町から避難) 女性(30代)
震災前は浪江町で、事務職の仕事をしていた。
子供が3人おり、今までは父母と同居だったため見てもらえたが、震災後は父母と同居できないため、内職するしかない。

●福島県二本松市 (50代)
二本松市内の製造の工場で働いていたが、震災後工場の原材料が入ってこなくなり、退職させられた。若い方は休職扱いで自宅待機だが、年令の高い順に辞めさせられたので、納得がいかない。

●福島県相馬市 (60代)
小高町で食料店経営していたが、震災の為店が流され、相馬市に避難して来た。今まで外で働いたことがないので、内職をしたい。

●福島県二本松市(浪江町から避難)(30代)
浪江町で事務職の仕事をしていた。
こちらで事務職の仕事を探しているが子供も小さいので保育園も空きがないので困っている。

●福島県二本松市(浪江町から避難)(30代)
母子家庭、浪江町で事務職の仕事をしていた。震災後事務職の仕事がなく、平日で夕方までの仕事を探しているが見つからない。

●福島県二本松市(浪江町から避難)(30代)
浪江町で清掃の仕事をしていた。子供がいるので土日に休める仕事を探しているが見つからず困っている。

●福島県福島市 (30代)
パートの事務職をしていたが、震災後経営が悪化とのことで辞めさせられた。
1ヶ月前に通知がなく突然のことなのでとまどとっている。

●福島県二本松市(20代)
夫、子供2人。
震災後夫が体調をくずし仕事ができなくなった。
生活のため正職員の仕事を希望しているが、見つからず又子供を預けるところもなく 困っている。

●福島県二本松市(浪江町から避難)(30代)
浪江町では販売の仕事をしていた。仕事がなく、他の職種をするのに自信がないので、内職をしたい。

●福島県郡山市(40代)
震災の為飯舘町から避難。サービス業の仕事をしていたが避難区域のため郡山に来た。またサービスの仕事をしたいため、アルバイトで資金を作り起業したい。

●福島県福島市(南相馬市から避難)(20代)
震災前はヘルパーの仕事をしていたが、突然できなくなり、前のようにヘルパーの仕事ができるのか自信をなくしてしまった。とりあえずなんでも仕事をしたい。もう一度ヘルパーの勉強をしたい。

●福島県二本松市(40代)
震災後、娘が精神不安定のためパートの仕事を辞めさせられた。
事業所にはもう少し時間をおいて雇って欲しい旨何回か伝えたが聞き入れてもらえなか った。

●福島県伊達市(南相馬市から避難)(30代)
震災前はレジ販売の仕事をしていたが、会社の方からはその後何も連絡がない。伊達市の求人は少ないので困っている。

●福島県二本松市(浪江町から避難)(40代)
縫製パートをしていたが、津波の為避難してきた。二本松は縫製の仕事がないので、製造の仕事でもするしかないと思い探している。

●福島県二本松市(浜通りからの避難者と思われる)(20代)
震災前はパートで働いていた。震災の後工場が避難区域にあり、移転したため、仕事がなくなった。子供が小さい為保育園もさがしている。

●福島県福島市(飯舘町から避難)(20代)
震災前は製造工場で働いていた
現在求職中で職安に通っているがみつからないため、内職をしながら探したい。

●福島県福島市(浪江町から避難)(20代)
震災前は浪江町で調理の仕事をしていた。休職扱いにはしてもらっているがいつ頃復帰できるかは分からないと言われて先が見えず不安。

●福島県郡山市(浜通から避難)(40~50代)
シングルマザーで娘と二人暮らし。被災して仕事が無くなった。
知らない町でつながりもなく、仕事もなくどうやってくらしていけばいいか不安。

●福島県福島市(50代)
ビジネスホテルの清掃・ベッドメイクの仕事をしていたが、震災直後もう来なくて良いといわれ、クビになった。しかし、営業再開がみこまれたら、再雇用するとの連絡が入った。また同じところで働き始めたが、娘が震災後離婚してシングルマザーとなり戻ってきたこともあり、またいつやめさせられるかわからず不安。

●50代女性
がれき処理などの肉体労働の求人はたくさんあるけれど、中年で離婚して身体壊して技術もなく震災同居を逃れたい私にできる仕事の募集はみつかりにくい(50代女性)

●50代女性
直接震災を理由にはされないが、震災のために明らかに業績不振になっているときに、”あなたは誰もやしなってないでしょ”と契約更新してもらえなかった。
でも事務職でこの年の人を採用してくれるところもなく、困っている(50代女性)

●宮城県女川町(40代)
午後に3時間半の、町営放課後児童クラブの仕事をしていた。
3月11日付けで解雇されたが、12月1日より復帰。
新築後1年半で被災。住宅ローンだけが残った。
高校生の息子がいて、チャランポランな考え方をする子ではなく、今までしっかり考えてきた子なので、温めてきた夢に進めさせてやりたい。今後の道にお金が掛かるが、住宅ローンは組んだばかりで、更に1本ローンを組むことはできない。
生命保険などは、金額を落とした。
家を建てるとき、息子が働いて返済することも計算に入れて建てたが、今後、家の新築は考えられず、入っていられる間は仮設にいて、その後は公営住宅に住むことを覚悟している。夫の会社はどうにかあるため、月額6万円の減給になった挙句、学校の補助は受けられない。食費は自分の働きでと思っている。
移動ハローワークが来ているし、折込みちらしも入る。もっと収入を増やしたい。瓦礫撤去後の選別は高額だが、コンビニは自給650~700円ほどで、きちんとした収入になる仕事は、なかなか見つからない。
無いものに支払って(住宅ローンは月額8万円)生活するのは、苦しい。
この町を出て行くつもりでいる。
仮設住宅でミシンを使った内職を皆で始めたが、9人中7人は仮設に入ってから知り合った人で、年代の違いなどから意見も合わず、今はバラバラに製作していて、作ったものを友達にあげたりしている人もいる。継続は大変かなと思う。支払いも、売れた分だけもらえるとか、次来るときに支払われるとか、様々だ。買取ってもらって、すぐ現金をみれない仕事だと、みなやりたがらない。

●宮城県女川町(60代)
被災で、生活そのものから立て直さなければならない。政策も定まっていない。
「一人暮らしだから…」という理由で、支援金減らされたり様々なところで削られるのは、不公平だと思う。
立ち上がる気を阻害される。蔑視されている思いだ。言われては、その度、奮い立たせているが、悔しい、辛い。
土地利用制限のぎりぎりの所。
7部屋ある坪数の大きい住まいだったが、今後は娘夫婦と一緒に生活する。自分ひとりなら、公営住宅に入ってもいいが、これから成長していく孫に、安住の家を建ててやりたいと思った。自立しようとするものに支援して欲しい。
夫は鮪船の機関長で人より収入はあった。60代前半で死去。遺族年金受給。
仕事に就きたい。水産関係の臨時の仕事に二ヶ月ちょっと就いたが、最近それも終った。秋刀魚の出荷の仕事で、腰痛や寒さがきつかった。女川では仕事は無い。皆コネで入っているので、今後就職できる隙はない。
最近は婦人部リーダーを、今までの分の奉公だなと言い聞かせやっている。
落ち着いてきて、悔しい、寂しい、これからの苦労、今までのことが走馬灯の思いでいる。

●宮城県南三陸町(50代)
地元の印刷会社で正社員として営業の仕事をしていた。
震災の影響で会社が激甚災害で休業となった。二ヵ月後には、退社することになり、今まで共働きの収入が、私の方は失業保険になった。夫は仮設生活で、私と高校生2人と義母の4人は、町外での借家住まいとなり、生活費も二重になった。仕事を探す為に、ハローワークに行っているが、被災地は、どこも女性の正社員求人が殆ど無く、パート・アルバイトの求人が多い。家のローンから、まだまだ支払いの多い生活だ。
震災前に住んでいた地区に戻りたいと思う気持ちでいる。細かいことを考えれば実現は難しいと思うが、その気持ちを日々の「生きる力」としていこうと思う。南三陸町で多くの女性が正社員として働ける場所が水産加工場ばかりではなく、アパレル・自動車・パナソニック・ソニーなど大手の会社が来て欲しいと思う。地方の女性ならではの「手仕事」もこつこつと頑張っていて大変よいこととは思うが、大手というものが全く無いのが残念だ。
震災した私たちにとって、復興に向けて、それぞれが一歩一歩前に進もうと頑張っているが、国がもっとスピード上げて欲しいと思う。現地に目を向け、日本の力、東北の女性の未来の為心からお願いします。

●宮城県南三陸町(50代)
薬剤師の夫は、雄勝町の仕事場で、震災で亡くなった。栄養士の私は、仮設の保育所で働いている。家は残った。
成人した子どもが二人いて、一人は今年の4月に入籍した。
町の子どもたちは、学校、保育所など、地元を離れて他町村で勉強している状態だ。
早く環境が整い、地元で子どもたちが活動できるようになってほしい。

●宮城県南三陸町
美容師で、美容室を経営していた。今は無職、住居は仮設。店舗は再開したいが、行政の支援は下りず、二重ローンの支払い立てられず再開不可。
個人で店を設立したときのローンの支払いの為、美容室再開をやむなく一度諦め、震災後にヘルパー2級の資格を取得、介護の仕事に就く予定。しかし、なるべくなら美容室を再開したい。企業だけではなく、個人経営者にも支援の手を伸べて欲しい。

●宮城県南三陸町
和裁仕立の仕事をしていた。今は、小物などの製作をしている。先は、何も見えていない。安心安全な生活をしたい。収入の源となる仕事をしたい。

●宮城県南三陸町(50代)
水道メーター検針の仕事や民宿の手伝いをしていた。震災と共に仕事は無くなった。
10月からメーター検針の仕事を再開。しかし、2ヶ月に6日間のみの仕事。他に、商店でアルバイト。一人で十分な店なので、経営者が外出する時だけの、不安定なアルバイト。
瓦礫撤去もしていたが、12月で無くなる。
どれも短期の仕事のみなので、収入、生活的に不安。継続できる仕事や民宿業の手伝い等、他の仕事も再開したい。
民宿業の手伝いを再開させるためには町の復興、そして観光、産業の復興にも着手して欲しい。

●宮城県南三陸町(60代)
漁協職員だった。震災によって解雇。現在は仮設で復興事業の一環で地元産品の製作作業をしている。(裁縫作業)
現在の仕事は2年までしかない。将来的には、商店を開きたいと考えている。
行政で街の復興青写真を早急に示し、団地の確保に急いで欲しい。予算が足りないというが議員の給与を削減し、街への支援金を増やして欲しい。

●宮城県気仙沼市(60代)
葬祭会館に勤務していた。
現在、無職(失業保険受給中)。自宅待機。住宅ローンの残があるが、年齢的に就職できず、現在も休職中。先行きたたず。
私達(60代)でも働ける仕事が欲しい。街の復興を急いで欲しい。

●宮城県南三陸町(30代)
個人病院の事務をしていた。現在無職。自宅にてできる内職がしたい。

●宮城県南三陸町(50代)
被災前は、毎日、海の近くにある作業場へ通い、牡蠣養殖をしていた。
今は、何もする仕事が無く、高齢者2人の面倒を見ている毎日。
高齢者がいるため、1日中家を空けることは出来ない為、内職のような仕事があればと思っている。
1日も早く前のように漁業ができ、近くに住むようにしてもらいたい。

●宮城県南三陸町(40代)
美容師だった。勤務先は津波で流出。今は無職(失業保険なし)。
収入が無いので働きたい。美容師の腕はあるが、いかす場所が見つからない。しかし、活かしたい。
街の復興を急ぎ、雇用の機会を増やしたい。

●宮城県南三陸町(70代)
震災で嫁が亡くなった。息子は働いているが、中3の孫を高校出してやらなければならない。昔働いた郵便局の嘱託の仕事に就いた。孫の弁当作り、朝出たきり18時まで帰れない。土日しか休めない。

●宮城県仙台市(30代)
スイミングスクールの受付をしていた。
津波で家を流され、民間アパートに引越した。スクールバスがこないので、幼稚園の送り迎えをしなければならない。働きたいが、時間がないし、未だ気持ちが落ち着かない。
夫は、勤務地は変わったが、仕事に就けている。
3年保育を希望していたが、お金が掛かるので、2年保育に変更した。
2年保育にした幼稚園のお母さんや、大きな地震がまた来ると言われているので、小さいこのいる人は、働きに出ないで家にいるようになったお母さんも多くいる。

●宮城県矢本町(40代)
矢本町のアパートに住み、働いていた。南三陸町に住んでいた両親は、友達が助けてくれた。震災後、一人で何もできない母は介護施設に預け、父は家でみている。その為、南三陸町の仮設は断り、矢本町で同居生活をすることにしたが、アパートでは無理なので、家を借り直した。
お金が掛かる一方なので、正規の仕事に就きたい。しかし、親の世話もあり、どうしたらいいかわからない。

●宮城県南三陸町(40代)
老人施設に勤務していた。津波で施設が流出した。パートから臨時社員になったばかりだったが解雇となった。その後、幾つか、コネで震災復興関連の仕事に就けたが、どれも、3ヶ月で仕事はなくなった。
津波で家が流され、仮設にいる。働かなければならない。しかし、仕事がない。

●宮城県南三陸町(40代)
ドライブインの手伝いと海の仕事をしていた。
畑や田も作って自給自足の生活をしていた。
震災後、瓦礫撤去の仕事をしてきた。予定より早く仕事がなくなったり、また再開したり不安定な仕事だったが、それも12月で終了する。
海の仕事をしていた夫は、共同作業でわかめをすることにしている。しかし、今までの規模と比較できないほどの小ささである。牡蠣は、今年は無理だった。
場所が決まれば家を建てたい。内職をしたい。80歳過ぎた高齢者がいるので、時間を掛けて他所の町に働きにいけない。
また、漁業の補償を、最低でも年間300万円欲しい。

●宮城県亘理町(40代)
10月に入って、仮設に入れた。住む所が決まらないうちは、仕事が決められず、失業保険も切れている。相馬市に仕事が見つかったが、原発問題があるので、親の反対もあり、やめた。娘と二人。夫はいない。生活不安から、ノイローゼになりそうだった。死んだほうが良かったと思った。夜も眠れない。
今、仮設自治会の会計の仕事をしている。人に世話ばかりなるので、少しはお返しできて嬉しい。精神的に苦しいので、年内は就職のことを考えないことにして、ハローワークへは行っていない。しかし、タウンワークは見ている。
「頑張ろう、頑張ろう」というと、その気持ちに負けてしまう。山元町の仮設にいる両親に弱み見せられず、頑張った。さまよって、人の世話になって、寝泊りした。行くところがなかった。仮設に入れて、自由にしていられることが今一番嬉しい。
考えるほど不安になる。正規の仕事に就きたい。母親は特定疾患を患っているので、優先して面倒を見てあげたい。
どんな仕事でも、いい。文句を言っていられない。当たり前の生活ができるようになりたい。

●宮城県亘理町(80代)
瓦礫撤去の仕事をしている。12月で仕事はなくなるので、これからどうしていったらよいかとても不安だ。

●宮城県南三陸町(50代)
20)2ヶ所で働いていた。仕事は無くなった。建てたばかりの家は無くなった。避難所などにきたパンフレットなどは、隅から隅までしっかり読んで、自分に関係のあるところは印を付けて、手続した。仕事に就きたいが、未だ働けない。避難所の代表をして世話に当ってきたが、体調を崩し、病院通いをしている。家のこと、仕事のこと、体のこと、不安だらけである。

●いわき市から東京に自主避難した人
勤めていたパチンコ屋が景気がいいので戻ってこいという(契約社員だった)。
乳児と3人の子どもがいるが、自主避難で子どもたちも限界で、いわきに1月に戻る予定。

●九段住宅の方
東京でも、仕事がなかなかみつからない。夫や親族と意見が違うのでできれば
仕事について自分の収入が得たい。保育園にはなんとか入れている。

●宮城県南三陸町(36歳)
震災前は義理両親と同居。震災後に仮設住宅にはいり核家族になり子供の学校も遠くなり、仕事が出来なくなった。
子供を預ける、環境がないことで働けない。

●宮城県(32歳)
保育所が津波で流され、預ける施設がなくなった。子供を預けることができれば働きたいが、今は面倒をみてくれる人がいないために働けない。求人情報すらなくなった。
今、職安にいっても子供が優先で働くということが難しい。
国で働きたくても働けないという現況を知ってほしい。仕事のことを考えるとこの先、子供は増えない。
どんな形でもいい。働きたいが働けない女性に支援という 安心を与えてほしい。

●宮城県南三陸町(39歳)
雇用はある。震災後は増えた。ただ、期限つき。今の状況を考えと働く場所があるという安心はあるが期限がきれた後に雇用があるか心配。子供もいる。預ける施設がない。

●宮城県仙台市ひぐちのりこ市議のお話
仙台市議会議員として9月30日、第3回市議会定例会で女性被災者の就労対策について
質問をし、奥山仙台市長から下記答弁を受けました。
「被災され、仕事を失った方々の雇用の確保は、自立と生活再建に向け、また地域経済の復興に向け、極めて重要な柱であると認識しております。
このため、災害関連融資や企業立地助成の制度の創設や拡充などの様々な手段で企業の再建支援や誘致を進めるとともに、緊急雇用創出制度等を活用して雇用の場の維持・創出に努めるなど、できるだけ多くの「働く場」を確保することを第一に進めております。
その上で、震災により、育児や介護をしながら働かなければならなくなった女性や長年勤めた職場を失い、新たな分野への就労に不安や、ためらいを感じてためらう方など、様々な困難を抱える方々のため、それぞれの課題に応じた就労相談や能力開発支援などに取り組みながら、きめ細かな支援を行ってまいる必要があると考えております。
子育て中の女性も働きやすい起業支援を行うインキュベーション・マネジメントや、NPOと連携して仕事づくりや就労支援を行うコミュニティ・ワーク創出事業などにも取り組みながら、多くの人が働き続けることができる雇用の場を生み出し、暮らしと地域の再建を進めてまいる所存でございます。」
とは言いながら、仙台市も緊急に公的仕事で募集した人たちの内容も、5年で打ち切りというものがほとんど。働き続けられる環境整備を!

被災地の女性からの雇用に関するメッセージへのコメント

  1. 50代女性 より:

    仮設3dkに夫、長男、私の母と4人で入居。夫とは以前から食事と寝る時だけ一緒だったのでストレスがたまり暴力もあり別居。移転対象なので買取を希望し新築と決めましたが、夫が世帯主のため加算金は夫の委任状などが必要とのこに愕然。震災から2年が経ちじ状況も変わってきてます。1世帯に対する支援なのだから考慮して欲しいです。しかも、私名義での買い取りなのに。男は年金がある、女は不利。ましてや夫婦なら夫が世帯主が普通。二重取りでは無いのにね…

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