初めて陸前高田に行ったのは、2011年12月のことでした。
日本ユニセフ協会の支援を受けて、震災後の未就学児とその親の心理的支援や、遺児家庭など保護やサポートを必要としている子どもと保護者の支援に取り掛かったチームの友人から、相談員や保健師さんたちに、「安全な暮らしとは何か」というテーマで話をしに来ないかと誘われたのです。盛岡に宿泊して、現地へは2時間近く掛けて車で入りました。

市役所(現在は取り壊し整理)は最上階まで津波が押し寄せ、向かいの市民会館とともに避難してきた多くの方や市の職員が亡くなった現場です。散乱した書類や机だの、飛び込んできた車だのが、ほとんど手がつけられないままのような状態でした。1人で4階まで上がると、そこは議場を見下ろす傍聴席で、風の音が人のざわめきのように聞こえました。ちゃんと生きなくては、そんな気持ちがざわざわする自分の中から湧きあがってきました。

勉強会の場所は高台の、急ごしらえの造成地に作られたプレハブ仮市庁舎の会議室です。保健師さんの1/3が亡くなったと聞き、愕然としました。近接市町から、応援の保健師さんが入っていましたがそろそろおしまい、新たに採用された若者の中には、DVなどにほとんど知識がない方もいるようでした。最前線での仕事をしていただく保健師さんや相談員の方々に話ができたことは、私にとっても大変よい経験でした。

その後、職員の方がご自分の住いに案内してくださり、改めて仮設住宅の現状を胸に収めました。子供たちが通う学校から住宅までの道は、冬に向かって、少しは明るく照らす照明灯などが整備されるだろうか、気がかりなことでした。

そして今年の夏、今度は同じ陸前高田で民生委員さんたちに「女性や子どもの安全は誰が守るのか」というテーマで話にいってきました。ちょうど高校野球の最終番、地元校の応援で気が気でなかった人もいらしたでしょうに、しっかり耳を傾け、ご意見などもたくさん話していただけました。

特別公務員という名前だけは立派でも完全ボランティアで働く民生委員さんは、いわば名誉職と心得る人も多いのですが、災害を経験された今、改めて露呈した日本の福祉基盤の脆弱さ、何の疑いもなく家が安全を守ると信じていた人々にとって、日本の現実がどうなのか、ちゃんと伝わったなら幸いです。男性と女性の感じ取り方には、大きな差があることも明らかにできたと、呼んで下さった職員の方から伺えてよかったと思うと同時に、まだしなくてはならないことがどんなに沢山あるのか、痛感しました。

帰りがてら、有名な一本松を見てきました。
「多くの人が観に来てくれて嬉しい」、「頑張ろうという気になるよ」と話してくれた人の言葉は、心にしみました。すぐ近くの慰霊の場を出ると、山がずいぶん切り出され、造成地に土が運び出されているさまが見えました。もう直ぐ巨大なベルトコンベアが設置され、ダンプカーの混雑が緩和されるのだということです。はたして次に来るときは、新しい街づくりが、どこまで進んでいるでしょうか。

東日本大震災女性支援ネットワーク 世話人 丹羽雅代

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